ACIM WB Lesson 42:God is my strength. Vision is His gift.
Workbook for Students
Lesson 42:God is my strength. Vision is His gift.
「わたしは神によって強められ、真実を見る力を与えられています。」
子どもたちのことを考えると、大切さ、愛しさを感じると同時に、どこかしら切ないような哀しさが常に湧いてくる。
美味しいものを食べた時、
この美味しさを子どもたちと分かち合えたら楽しいだろうな、
と感じると同時に、
子どもたちに美味しいものをもっと食べさせてあげたかった。
子どもたちが小さかったとき、わたしはしっかり心を込めて毎回食事を作ってあげてこれただろうか。
もっと子どもたちにいろいろな美味しいものを作って食べさせてあげたかった。
などという、後悔のような、罪悪感のような、自己叱責のような感情が
沸々と確実に浮かんでくる。
そしてなんだか寂しくなる。
息子が新婚旅行に行く直前にお金を打診してきたとき、
本人といろいろと話した末、わたしなりに冷静に判断して、
本人の合意のもと依頼を断った。
とても辛かったが、本人のためを思えばこその決定だった。
はず、、、が
時折このことを思い出しては、
かわいそうなことをした。
親ならどんなときでも助けるべきだったのではないか。
心細い思いをさせてしまったのではないか。
と、感じなくてよい後悔と罪悪感と悲しさが
今でも時に怒涛の勢いで押し寄せてくる。
仕事人間だったわたしは、子どもたちが小さかったとき
いちばん大切な時、朝早くから夜遅くまでエネルギッシュに働いていた。
子育てよりも仕事を優先していた場面も多かった。
反省することが多く胸が詰まる。と子どもたちが立派に育った今でも思うことが度々ある。
しかし、そのときそのとき、自分にできる最大限のこと、それ以上のことを子どもたちに与えてきたという気持ちもある。
多分そちらの方が真実に近いかもしれない。
わたしという人間の性質上、仕事をしていようが、していまいが、忙しかろうが忙しくなかろうが、子供と余り一緒に遊ばなかったにしろ、たっぷり遊んだにしろ、どっちにしろ
後悔と罪悪感を持ってしまうのだろう。
今回のレッスンを進めるにあたり、
どうしてわたしは子どもたちへの愛情を感じる時、
喜びや楽しさよりも、悲しみや罪悪感が表層を覆ってしまうのだろうという
疑問が立ちふさがった。
気がついたのは、それは対象は子どもたちに限らず、
わたしは大切なひとへの愛情を抱く時、必ずもやもやとした哀しみに満ちた負の感情が頭をもたげる。
どこでこのような条件反射のような反応が培ったのか。
幼少期の母親へ対しての不安な気持ち、満たされなかった欲求が根底にあるのかもしれない。
母親がわたしを愛してくれるとき、必要としてくれるとき、心を開いてくれるとき、それは例外なく
”わたしの苦痛”の存在の上に成り立っていたということに気がついた。
母親の身の上話の聞き役になるとき、慰める時、なにかしら手柄をたてたとき(作文コンテストで入賞するなど)母親の自尊心を高めるのに貢献したとき、いつも心のどこかしら哀しみや怒りや罪悪感を抱いていた。
愛すること=相手のために自己犠牲になり、それゆえ自分の心をないがしろにすること
愛すること=精神的な痛みを伴う行為
愛すること=決して満たされないこと
こういった図式が深層心理に刻み込まれていたようだ。
真実は、
愛すること=誰の犠牲も伴わず、皆の心が軽やかな喜びと幸せで満ちあふれること。
頭で理解していても、余りにもディープな潜在意識への刷り込みは、そう簡単にその洗脳が解けるものではない。
まずは気がつくこと。
そして神とともにあるわたしには”力”があること、”見抜くこと”ができる眼を与えられていることを思い出すこと。
自分に掛けた洗脳からすっかり開放され自由になるため、
そしてほんとうの愛を学ぶため、
このレッスンは用意されていたようです。
奇跡的なシンクロニシティ。
感謝で心がふるえています。
ではまた♡