Kizuki Cafe by ACIM実践者ルルジュゴン

ACIMの実践を通して、ルルジュゴンがラスベガスから愛のエネルギーをシェアします♡

ACIM WB Lesson 44:God is the Light in which I see.

Workbook for Students

Lesson 44:God is the Light in which I see.

 

「わたしは神(光)によって真実をみています。」

 

Vipassana瞑想のなかで心や感情や感覚にスポットライトを当てるとき、そのライトはどこからやって来ているのかが明らかとなる。

 

その光はこの仮想現実のなかで創り出したおもちゃとではなく、源から流れ出す本質であったのだ。

その光で見えてくる(感じ取れる)ものこそ、今のわたしを導いてきた真実であったのです。

 

今朝の瞑想時、半蓮華座を組むことによる脚の痛みをじっくり観察してみた。

痛みは確かなもののようで実はかなり漠然としている。

 

膝の内側、大腿部の、鼠径部、腰、背中、臀部、

と痛みの位置は一瞬たりとも定まっていない。

同じ膝の内側であっても、ミリ単位で細かく移動している。

 

痛みとは肉体のなかに存在していないのだ。

どちらかというと空中浮遊していて、身体とは受信送信を繰り返し、

共振しあっている。

その身体はイメージであって、痛みもまた創り出したガジェットのようなもの。

 

面白いおもちゃを創り出したものだ。

 

瞑想時に訪れたメッセージ。

入り口で判断せず、中に続く大広間をオープンにしておくこと。

自分やひとのやっていることではなく、その時々の率直な波動だけに注視すること。

 

では良い一日を♡

 

 

ACIM WB Lesson 43:God is my Source. I cannot see apart from Him.

Workbook for Students

Lesson 43:God is my Source. I cannot see apart from Him.

 

「神はわたしの根源です。何事もその神から分離して見ることはできません。」

 

神の領域においては知覚というものは無い。

神は智慧であるからだ。

 

さて、知覚と智慧が二大特質のように書かれているが、

そもそもなぜ、知覚と智慧なのだろう。

そこから疑問が湧いてきた。

 

アバターである肉体は知覚を通して情報を取り込む。

そして様々な知覚が積み重なって経験というストーリーを創り出し、

その蓄積がKnowledgeとなる、

というのがわたしのぼんやりとした理解、感覚であった。

 

神のKnowledgeとアバターとして個々の肉体が持つKnowledgeは

明らかに違うものなのであろう。

 

神のKnowledgeとは何だろう。

幻想世界で作り出すそれとは異次元のものであることは想像できるが、

知覚との比較におけるKnowledgeとは?

 

PerceptionとKnowledgeの架け橋として神とアバターを繋いでくれるHoly Spirit。

 

そうか、この世のゲームにおいて、Holy SpiritがKey Personになってくる訳だ。

そのHoly Spiritの正体は?

 

今という意識にフォーカスするとき、

宇宙(全体)の流れに逆らわずに自らが身を任せているとき、

インスピレーションを授かるとき、

シンクロニシティを体験するとき、

瞑想時に求める繋がりの先にあるもの、

無限の自分と対面するとき、

それらは神と直接呼応していたようで、

実はHoly Spiritが間を取りもっていたということだ。

 

Holy Spiritは多分未来系の自分自身、あるいは

地球外生命体、あるいは

Guardian Angel(守護霊)、あるいは

Higher Selfであろう。

とにかく自らを導くものだ。

 

おぼろげながらこのゲームのキャスティングが明確になってきた。

 

そしてどのキャスティングも結局、

自分自身だ。

 

今回のレッスンは源である神を通してしか、

この世のものを見ることはできない。

でも、知覚というゲームのツールを想定して遊んでいる我々には

Holy Spiritが本来の神との橋渡しをしているということなのだ。

 

Holy Spiritが、我々が幻想の中の遊びとして使っている知覚を、

神のKnowledgeに限りなく近づけてくれるというのだ。

そこに救済があり、意味の無かった知覚が大きな意味を持つようになる。

 

その意味とは、他人を許し、自分を許すということ。

 

知覚をそのように変容してくれるHoly Spirit(未来の自分)を信頼して、

あとは一瞬一瞬を精一杯楽しく生きていくというのが

一、アバターができる最大の奇跡なのだろう。

 

では良い一日を♡

 

 

 

 

 

 

 

ACIM WB Lesson 42:God is my strength. Vision is His gift.

Workbook for Students

Lesson 42:God is my strength. Vision is His gift.

 

「わたしは神によって強められ、真実を見る力を与えられています。」

 

子どもたちのことを考えると、大切さ、愛しさを感じると同時に、どこかしら切ないような哀しさが常に湧いてくる。

 

美味しいものを食べた時、

この美味しさを子どもたちと分かち合えたら楽しいだろうな、

と感じると同時に、

子どもたちに美味しいものをもっと食べさせてあげたかった。

子どもたちが小さかったとき、わたしはしっかり心を込めて毎回食事を作ってあげてこれただろうか。

もっと子どもたちにいろいろな美味しいものを作って食べさせてあげたかった。

などという、後悔のような、罪悪感のような、自己叱責のような感情が

沸々と確実に浮かんでくる。

そしてなんだか寂しくなる。

 

息子が新婚旅行に行く直前にお金を打診してきたとき、

本人といろいろと話した末、わたしなりに冷静に判断して、

本人の合意のもと依頼を断った。

とても辛かったが、本人のためを思えばこその決定だった。

はず、、、が

時折このことを思い出しては、

かわいそうなことをした。

親ならどんなときでも助けるべきだったのではないか。

心細い思いをさせてしまったのではないか。

と、感じなくてよい後悔と罪悪感と悲しさが

今でも時に怒涛の勢いで押し寄せてくる。

 

仕事人間だったわたしは、子どもたちが小さかったとき

いちばん大切な時、朝早くから夜遅くまでエネルギッシュに働いていた。

子育てよりも仕事を優先していた場面も多かった。

 

反省することが多く胸が詰まる。と子どもたちが立派に育った今でも思うことが度々ある。

 

しかし、そのときそのとき、自分にできる最大限のこと、それ以上のことを子どもたちに与えてきたという気持ちもある。

 

多分そちらの方が真実に近いかもしれない。

 

わたしという人間の性質上、仕事をしていようが、していまいが、忙しかろうが忙しくなかろうが、子供と余り一緒に遊ばなかったにしろ、たっぷり遊んだにしろ、どっちにしろ

後悔と罪悪感を持ってしまうのだろう。

 

今回のレッスンを進めるにあたり、

どうしてわたしは子どもたちへの愛情を感じる時、

喜びや楽しさよりも、悲しみや罪悪感が表層を覆ってしまうのだろうという

疑問が立ちふさがった。

 

気がついたのは、それは対象は子どもたちに限らず、

わたしは大切なひとへの愛情を抱く時、必ずもやもやとした哀しみに満ちた負の感情が頭をもたげる。

 

どこでこのような条件反射のような反応が培ったのか。

幼少期の母親へ対しての不安な気持ち、満たされなかった欲求が根底にあるのかもしれない。

 

母親がわたしを愛してくれるとき、必要としてくれるとき、心を開いてくれるとき、それは例外なく

”わたしの苦痛”の存在の上に成り立っていたということに気がついた。

 

母親の身の上話の聞き役になるとき、慰める時、なにかしら手柄をたてたとき(作文コンテストで入賞するなど)母親の自尊心を高めるのに貢献したとき、いつも心のどこかしら哀しみや怒りや罪悪感を抱いていた。

 

愛すること=相手のために自己犠牲になり、それゆえ自分の心をないがしろにすること

愛すること=精神的な痛みを伴う行為

愛すること=決して満たされないこと

 

こういった図式が深層心理に刻み込まれていたようだ。

 

真実は、

愛すること=誰の犠牲も伴わず、皆の心が軽やかな喜びと幸せで満ちあふれること。

 

頭で理解していても、余りにもディープな潜在意識への刷り込みは、そう簡単にその洗脳が解けるものではない。

 

まずは気がつくこと。

そして神とともにあるわたしには”力”があること、”見抜くこと”ができる眼を与えられていることを思い出すこと。

 

自分に掛けた洗脳からすっかり開放され自由になるため、

そしてほんとうの愛を学ぶため、

このレッスンは用意されていたようです。

奇跡的なシンクロニシティ。

感謝で心がふるえています。

 

ではまた♡

 

 

 

 

ACIM WB Lesson 41:God goes with me wherever I go.

Workbook for Students

Lesson 41:God goes with me wherever I go.

 

「神とわたしはいつでもどこでも一緒です。」

 

先ずこの一文、God goes with me wherever I go、を繰り返すことにより、常に一緒に存在する神と自分が一体化する感覚を覚えた。

 

この簡単な一文、とても深い。

 

God goes with me wherever I go.

 

なぜ、God will go with me wherever I go ではないのか。

それは時間という概念を超えて、既に神とわたしはずっと一緒だからだ。

 

なぜ、God comes with me wherever I go  でないのか。

それは空間という概念を超えて、既に神とわたしはずっと一緒だからだ。

 

だから、God goes with me wherever I go なのです。

 

目を閉じ瞑想しながらこの一文を反復する。

 

神がネバーエンディング・ストーリーのファルコンで、わたしがファルコンに乗る少年で、自由自在に飛び回るイメージが浮かぶ。

 

少年は嬉々としてファルコンと一体化して上に下に、右に左に身体をくねらせながら広大な空を駆け巡る。

 

いつしか少年は自分の肉体の感覚を忘れ、ファルコンと一体化する。

 

絶対的な自由と開放感と喜びと楽しさがそこにある。

 

そんなイメージ。

 

そして愛する人々、どうしても自分とは分離しているかのように映っている家族、友人、皆ファルコンと一体化する。

 

だからひとの心配は不要なのです。

 

自分がファルコンとしっかり繋がっている意識をコンスタントに思い出すことで、周りもどんどん繋がっていくのですから。

 

今回のレッスン、確かにパワフルなものとなった。

 

ではまた♡

 

 

 

ACIM WB Lesson 40:I am blessed as a Son of God.

Workbook for Students

Lesson 40:I am blessed as a Son of God.

 

「わたしは神の御子として祝福されています。」

 

今回のレッスンはなんと10分置き。

一昨日はほぼ気がつくと1〜2時間経ってました、が丸一日続き、余りにも10分置きとはかけ離れてしまったため、昨日も再レッスン。

 

そして実を言うと、昨日も忘れてしまうことが多かった。

 

でもまあこのレッスンのエッセンスはかろうじて掴めたかな、と思えたので、先に進むことにした。

 

神の御子、神の一部、いや神そのものであるという真実を思い出すことによって、この世のゲームは軽やかで楽しさ喜びに満ちたものとなる。

 

何をするでもなく、ただ存在し、刻々と弛まなく変わり続ける周りの映像を眺める。

そして同様に瞬間瞬間に変化をし続ける自分自身に注意を向ける。

なんて不思議なんだろう。

なんてすごいんだろう。

この身体は。この感覚は。この感情は。この存在は。

 

本当は存在などしていないのに、

こんなにもリアルに、こんなにも鮮明に

全てのものが小刻みに振動しながら、

”ある”かのように映し出される。

 

そして無であるわたしは、永遠である神と繋がっている。

神の御子として。

 

それではまた♡

 

 

ACIM WB Lesson 39:My holiness is my salvation.

Workbook for Students

Lesson 39:My holiness is my salvation.

 

「わたしの神聖さがわたしへの救済です。」

 

ACIMのWorkbookを進めるにあたって、前日の考察や疑問などが翌日のレッスンで解説されていたり、内容が掘り下げられたりすることが度々ある。

 

今回も昨日の考察、愛でない思考や感情を払いのけることが出来ないと感じる(壁にぶつかると感じる)とき、現れてくるのが神聖さであるということが、今回のWorkbookの中で、愛でない思考つまり恐れベースの思考(怒り、心配、不安、攻撃、罪悪感など)などからの救済に関してより深く説かれています。

 

Workbookと自分の歯車がうまく噛み合って呼応しあっていると実感します。

 

救済が必要なことは、ささいなこと、見過ごされがち、意識的ないしは無意識に見ないふりをしてしまっていることのなかに潜んでいます。

 

子どもたちのことが心配→

この愛でない思考がわたしを地獄に閉じ込めます。

わたしの神聖さがわたしを地獄から救済します。

 

子どもたちの将来が不安→

この愛でない思考がわたしを地獄に閉じ込めます。

わたしの神聖さがわたしを地獄から救済します。

 

子どもたちにしてあげられることを充分してこなかったのではないかという罪悪感→

この愛でない思考がわたしを地獄に閉じ込めます。

わたしの神聖さがわたしを地獄から救済します。

 

子どもたちを傷つけてきたのではないかという後悔、自己叱責→

この愛でない思考がわたしを地獄に閉じ込めます。

わたしの神聖さがわたしを地獄から救済します。

 

考え方が未熟で目覚めから程遠いと思われるひとへの批判→

この愛でない思考がわたしを地獄に閉じ込めます。

わたしの神聖さがわたしを地獄から救済します。

 

自分の考えと違う考えをもつひとへの嫌悪感→

この愛でない思考がわたしを地獄に閉じ込めます。

わたしの神聖さがわたしを地獄から救済します。

 

自分を正当に扱ってこなかったと思う人への被害者意識→

この愛でない思考がわたしを地獄に閉じ込めます。

わたしの神聖さがわたしを地獄から救済します。

 

愚痴や社会批判ばかりするひとへの攻撃(心のなか)→

この愛でない思考がわたしを地獄に閉じ込めます。

わたしの神聖さがわたしを地獄から救済します。

 

これらは全て他のひとに向かっている感情のようにみえて、事実は全て自分自身への気持ちです。

つまり、心配も不安も罪悪感も後悔も嫌悪感も被害者意識も攻撃も、全て自分へ向けられたものなのです。

 

そこから救済されることなど限りなく不可能に近いと信じてきました。

最大の努力をしても、自分で自分を救うことなど無理だと思っていました。

ここがトリッキーなところなのですが、

自分だと思っていたものは自分ではなかった。

 

本来の自分を思い出すことにより、そこに帰ってゆくと、そこは不可能がなく、地獄からの脱出となる数多くの楽しい方法が用意されています。

 

現実的でないと一般的に信じられていることが実は真実で、

仕方がないことと思われてきたことは、いとも簡単に解決された状態に一瞬んでワープすることが出来るのです。

 

だから真実を知ったあとの世界は、

ゲームの良いとこ取りで、

ただ単純に楽しさの連続なのです。

 

ではまた。

Have a good day♡

 

 

 

ACIM WB Lesson 38:There is nothing my holiness cannot do.

Workbook for Students

Lesson 38:There is nothing my holiness cannot do.

 

「わたしの神聖さをもって、全てのことが可能となります。」

 

問題を挙げることに少々時間がかかった。

特にひとの問題。他人の問題はこちらからみて問題だと見えても、本人にとってはさほど問題ではなかったりする。

逆にとても問題には見えないことが問題であったりもする。

 

だから、ひとの問題は、そのひとが問題だと宣言ないしは、告白しない限り、実際のところ心の中はわからないものだ。

 

因って、今回のエクササイズは、”自らの抱える問題”にフォーカスしてみた。

 

自分の問題であっても、ひとの問題同様、それが本当の問題の真髄なのか、あるいは何かを取り繕うための表層的なものが言語化されているだけのものなのか、そこは本当にじっくり自分に尋ね続けないと見失いがちとなる。

 

心の闇を創造し続ける原動力は、不安と自己否定、恐れと罪悪感などだ。

 

子どもたちのことを愛している。

 

その気持がコンスタントな不安と心配と罪悪感で曇ってしまう状況があることに気づく。

 

愛することに不安や心配、罪悪感が付帯することなど本来無いはずなのだ。

 

不安や心配、罪悪感が混在する場合、そもそも愛ではなかったのだろう。

 

子どもたちのことを思う時、愛しい、かわいい、大切、と思うと同時に、

これからの生活の不安、幸せになってくれるかの心配、自分が出来ることをしてあげてこなかったのではないかという罪悪感などが常につきまとう。

 

愛するということは、もっと軽やかで、自由で、楽しいもののはず。

 

不安、心配、罪悪感を無くそうと努力を重ねてきた。精神性を高めたり、様々な本を読んで勉強したり、自分の過去と向き合ったりと、考えられる限りのことをやってきた。

 

でも、でも、でも、どうしても自分の”力”や”努力”、”頑張り”だけではどうしようもないものがある。

 

そこに辿り着くために、今までの努力はあったような気がする。

 

「自分じゃどうしようもならないこと」を気付き、認め、そして頑張ることを止め、明け渡す。

 

神聖さはそこにマニフェストする。

 

頑張っている自分は自分じゃなかったんだ。

源、宇宙と繋がっている本当の自分、或いは源、宇宙そのものである自分には、出来ないことはない。

 

出来ないゲームをすることすら出来る。

 

だから、本当の壁にぶつかるまでは、エゴマインドゲームの中で、たくさんの汗をかいて、涙も流して、努力という遊びをすることも流れの一環なのだ。

 

本当の壁を見出した時、そのときこそ真の自分を思い出せるチャンス到来。

 

そして全ては可能となる。

 

ではまた♡