Kizuki Cafe by ACIM実践者ルルジュゴン

ACIMの実践を通して、ルルジュゴンがラスベガスから愛のエネルギーをシェアします♡

人種差別に関しての私考

Workbook for Students

Lesson 52:LESSON SUMMARY #6-10

 

Lesson #6: I am upset because I see what is not there.

Lesson #7: I see only the past.
Lesson #
8: My mind is preoccupied with past thoughts.

Lesson #9: I see nothing as it is now.

Lesson #10: My thoughts do not mean anything.

 

北米で30年以上暮らして、人々の心の奥深いところに存在する人種差別に驚愕する。

 

本当のところ人種差別意識の無い人間はこの世にはいないと思う。

北米だけでなく、人種の多様性の少ない日本なども、実はもっと人種の違いに関しての無知からくるナイーブな人種差別感は横行しているようにも思える。

 

わたしは人種差別に反対です、わたしは全くの平等意識で生きています、とさも聖人君子的なことをいう人間こそ、実は最も根深いところで人種差別意識を持っていたりする。

 

特に人種差別問題に過剰に反応し、人種差別をする人間に対しての憎悪が半端ない人っていうのも、もしかしたらその憎悪はどこに起因するか自己分析すると良いかもしれない。

 

人種差別意識を持っているからといって、それを暴力や殺意で表現する人は少ないかもしれない。

平和的、静かな意識的レベルでは、人間はそのエゴマインドゆえ自己と他者を分離して見ている限り平等になんかなれないこと実は誰もがうっすらわかっている。

 

だから他人種が共存する北米などは制度やルールが必要となる。そしてその制度やルールも決して平等などではない。

 

マイノリティに対する限りない差別意識、意識的であっても無意識であっても、暴力的であっても心の中だけであっても、その恐ろしいほど根深い感情は根絶することが今のところ(わたしが今見ている世界では)人類は出来ずにいる。

 

残虐な事件が起こり、大衆の目前にそれが暴露されるたびに人々は立ち上がり反逆し無差別と平和を叫ぶ。

敵意をもとに掲げられる愛は所詮敵意に還ってゆく。

攻撃心をもとに行われる平和運動はいずれ攻撃の拡大につながる。

 

マイノリティ人種の人の中には、自分たちに有利な制度を逆手にとっているケースもある。また何かにつけて自分たちを被害者と見立てて、マジョリティ人種に悪意で敵対し、その憎悪のもと団結している人たちもいる。

 

マイノリティ優遇政策のもと、同じだけの努力をして、同じだけの社会貢献をして、同じ条件であっても、マジョリティであるというだけで、不利な生活を余儀なくされてきた貧困〜中間層の白人の抑圧された怒り、フラストレーションがことごとく蓄積されてきたことも確かだ。

そしてそうしたマジョリティの人々にも”被害者意識”は強く存在する。

 

どうしても現在の自分の人間としての色形で自分というものを認識してしまうが、実際は今ある自分という存在は、全ての人種、全てのGender、全ての国籍、全ての要素を内包している。

 

わたしは日本人で黄色人種で女性で58歳だと今認識しているが、現実はアメリカ人でもあり中国人でもありエチオピア人でもあり黒人でもあり白人でもあり男性でもありトランスでもあり10歳でもあり89歳でもあり生まれる前の状態でもあり、死後の状態でもある。

 

自分が外界から分離されたものだと見るエゴマインドのゲームの世界の中では、肌の色の違い、国籍の違い、動物としての種類の違い、生死の違い、男女の違いがあるのは当然だ。

 

だってそのように自分で設定してつくったゲームなのだもの。

 

だけどそのゲームの中の遊びかたルールの上で、違いは楽しむもの、お互い学ぶものとして遊べばとてもおもしろい。

ところが違いが恐れの対象となった途端、自己無力感というデフォルト設定が起動され、自己防衛体制となる。

そして違うものとして映る外界が己の敵、危険対象物となり、攻撃の的となる。

実際は外界に敵を作るということは、自分を敵とみなしている状態、自分を攻撃しているということのただの反映なのです。

 

違いを超えてみんなと仲良くなりたければ、まずは自分自身と絶対的に仲良くならなければなりません。

他人の違いを本当の意味で認め尊敬したいのであれば、自分の中にあるものを全て認め尊敬しなければいけません。

周りに映し出される風景(人、動物、植物、鉱物、もの)を愛したければ、絶対的な愛に戻ることが必要となります。

 

自分が愛しいゆえ、ひともまた愛しい。

 

ではまた♡