Kizuki Cafe by ACIM実践者ルルジュゴン

ACIMの実践を通して、ルルジュゴンがラスベガスから愛のエネルギーをシェアします♡

ACIM WB Lesson 34:I could see peace instead of this.

Workbook for Students

Lesson 34:I could see peace instead of this.

 

「どんな状況でもどんな対象物にでも、その中に平安を見出すことは可能です。」

 

心の中の平安を乱す根源となるものを見つけることは難しい。

外界に原因を置いている限り、いつまでも自分は被害者であり、その外界が変わ無い限り心は乱れ続ける。

 

心の中の平安が乱れた瞬間を捉えることもまた難しい。

小さなイライラ感、ちょっとしたフラストレーションは、

無視したり、押し込められたり、払いのけられたりしてしまう。

 

まずは小さな心の揺れ、感情が動く瞬間を、何の既成概念なしに捉え続けることが大切となる。

 

ヨガの練習を長く続けていても、どうしても柔軟性が高まらない身体の部分がある。

足の付根の外旋と肩の外旋。

多分双方は深く繋がっているのだろう。

 

これらが必要となるアサナになると、途端身構えてしまう。

木のポーズや蓮華座などなど。

 

アサナに入るとき、入ったときの感情は、

嫌だな、上達しないな、などネガティブになりがちだが、

一番問題なのは、

自分、駄目だな、という自己否定や

この硬い身体嫌い、という自己嫌悪感など、

自分ディスり感。

 

そこを瞬時に I could see peace instead of this

で心の中の平穏な部分をアクティベイトして感情を中和させてあげる。

 

出来ないことは出来ないで、残念という気持ちは残るが、

それ以上に自分に対するイライラ感、焦燥感はなくなる。

 

出来ないなりに、頑張ってるやん、

出来たら楽しいだろうからこのまま練習続けたい!

なんかコツはあるのか探求してみよう、

などなど、

気持ちは明るく軽く、Joyfulになってくる。

 

Vipassana瞑想中だってこういうことはある、ある。

 

どうしても気が散って気がつくと瞑想が迷走。

 

全く今日はどうしたんだろう。

脚も痛い、なんか気分も優れない。

そして一番問題なのが、

集中力のない自分へのバッシング。

 

人は必要以上に、常に自分叩きを繰り返している。

 

そこで I could see peace instead of this

 

心の平和な部分を再活動化させる。

 

こんな日があってもいいじゃないか。

よくやっているこの身体と心に感謝だね。

そして気がつくと、集中して瞑想を楽しんでいる。

 

今朝の瞑想が正にそうだった。

平穏を稼働させてからの後半の瞑想は、

ビリビリと振動と光の強力なパワーを感じ、

色とりどりの丹光でびっくりするくらいの深いものとなった。

 

電子レンジを開けた瞬間目に飛び込んでくるこびりついた汚れ。

瞬間に心が動く。

汚ね。

まったくもー。

だれ?使った後の汚れそのままにしてんのは!

ちょっとした小さい怒りだけど、見逃しはしない。

そのまま放置すると、その次も、その次の次も、その次の次の次も、

電子レンジの扉を開けるたびに繰り返されるこの

マイナーなイラつき。

 

ここでも一番問題なのは、

このちょっとした不快感が自分に向けられた怒りや攻撃であることだ。

 

そこで I could see peace instead of this.

 

Peaceful Mindを呼び覚ます。

 

感情はニュートラルになり、

ただ単純に汚れた部分を丁寧に拭いてあげる。

それだけ。

なんの感情も取り込まず、ただ綺麗にする。

 

なんと気分が良いことか。

 

電子レンジに限らず、お掃除の真髄はそこだった。

 

ただきれいにする。

感情を織り込まず、ただきれいにする。

 

その副作用として、

素晴らしく気分が良くなったり、

やる気がでたり、

優しい気持ちが湧いてきたりするけど、

そんなもん出てこなくてもよい。

 

平穏な気分でいること、

その平穏は状態が本来のものであると認識すること、

それ自体が最も大切なことですね。

 

それではまた♡